「識学×経営理念」について考察します。
識学=軍隊的、とよく言われるようですが、元自衛官の私からすると、識学と軍隊的組織は「似て非なるもの」です。(識学×軍隊的、という話についてはまた改めて考察します。)
しかし、「識学×経営理念」について考えると、「識学」と「軍隊や自衛隊」は通ずるところがあります。
今回は、「経営理念を考える意義」について、識学的組織と軍隊的組織、両方を経験した私の視点から考察します。
「経営理念そのもの(命令そのもに)」に疑問をもってはいけない|識学×経営理念のポイント①
僕の理解での、「識学×経営理念」ですが、「経営理念そのもの(命令そのもに)」に疑問をもってはいけない、というのは軍隊も自衛隊も識学的組織も同じです。
なぜ祖国を守らないといけないのか、なぜA地点を奪取しないといけないのか、有名なレンガ積み職人の話でいうと、「なぜ大聖堂を建てないといけないのか」)という疑問はダメです。(識学的には、あるいは軍隊的組織においては、ダメです。普通に暮らしている分には良いと思います。)
ここはカント主義における「定言命法」に通ずるところ、かと思います。(カント主義×労働に関する考察もまたいずれします)
しかし一方、「なんのために」という意識は任務遂行(仕事)のために不可欠、だと思います。
そして、この「なんのために」が、立場によって異なってくるわけです。
位置によって認識が異なる経営理念|識学×経営理念のポイント②
例えば、 「なぜ(なんのために)祖国を守るのか」と、いう理念について考えてみます。 当然「国家元首」「将官」「左官」「尉官」「兵卒」によって異なります。 階層による理念が共有されることはないです。
識学が言っていることは、上官(上司)に対して、「部下と理念を共有することは不可能だから、共有しようとすることはやめなさい」と言っている訳です。 (識学は「マネジメント層」に対するコンサルです)
しかし、個々人からしてみると「なんのために祖国を守るのか」という理由が無ければ死ねないですね。そこで必要なのが、「理念分解」です。 理念分解によって、個々人に死ぬ理由を与える訳です。 例えば兵卒なら「給料を得るため」「故郷を守るため」かもしれません。 国家元首なら「祖国を存続させるため」かもしれません。 一致することはないですが、それぞれの立場で理念を理解し、同じ理念の下で働くわけです。(「愛する人が暮らす国だから守る」と、いうのは階層限らず共通認識かも、しれませんが。)
要は、ことなる階層で理念を共通認識はできない。共通で理解できるのは日本語としての意味だけ。 ただし、それぞれの階層において理念を意識することはアリ(というか必要?)ということですね。
(もう一度言いますが、識学は経営層に対するマネジメントなので、マネジメント層以外の人には中々納得できないことも多いかと思います。)
経営理念の意義を考える意味|識学×経営理念のポイント③
と、ここでよくある命題「仕事の意義(目的)を考えること」について考えてみましょう。
それで言うと、意義(目的)を考えることを識学は禁止してはいないです。(たぶん)
以下、私の主観です。
意義(目的)を理解することは「どんなクオリティの成果物をつくるか(なんのために国を守るのか」ということなので、むしろロスタイム(依頼者の意図と違う成果物を作る時間、死ぬことを躊躇する時間、大聖堂にふさわしくない物(雨樋とか?)を時間)を無くすことに繋がるわけですね。
しかし、ここで死ぬことを躊躇するような疑問(理念の本質を疑うような疑問)をもってはいけない、わけです。 (これは訓練が必要です、たぶん)
識学の肝は「意義を考えないこと」ではなく、「命令に疑問をもたないこと」です。たぶん。知らないですけど。(本当に知りません。間違っていても責任はとりません)
そして、疑問を挟む余地を与えない命令が「完全結果」です。 だから完全結果での指示が必要な訳ですね!たぶんですけど!
つまり何が言いたいかというと、与えられた位置で与えられた武器で戦う、ということです。 そして、指示の『本質』に疑問をもってはいけません。 ただし、指示の『ゴール』が分からない(評価者が求めていることが分からない)時は確認するのはOK、 と、いうのが識学です。たぶん。